出来事の意味を決めているのは自分の“見方”次第

人生には、思いもよらない出来事が起こります。そして、私たちはそれに対して、瞬間的に「良い」「悪い」と判断してしまいがちです。しかし、その判断は本当に正しいのでしょうか。私が日々自分に問い続けているのは、「その出来事にどう意味づけるかは、自分の見方次第だ」ということです。

この考えを深めてくれるのが、中国の故事「塞翁が馬」と、古代ローマ皇帝マルクス・アウレリウスの『自省録』の中の一節、そして、コーチとしての現場での経験です。

まず「塞翁が馬」。ある日、老人の馬が逃げてしまいます。しかし、しばらくすると立派な馬を連れて戻ってきた。次に、その馬に乗った息子が落馬して大怪我を負う。けれど、その怪我があったことで戦争への徴兵を免れ、命が助かることになります。
この物語が教えてくれるのは、「今起きている出来事が幸か不幸かは、その瞬間には判断できない」ということです。

また、アウレリウスの『自省録』にはこう書かれています。
「登っていくことが善でもなければ、落ちていくことが悪でもない。」
これは、私たちが持つ“上昇=成功=善”という思い込みをやさしく打ち砕いてくれる言葉です。石が上にあろうと下にあろうと、それ自体に善悪はありません。
この視点は、社会の中での評価や地位、あるいはスポーツの世界での結果主義にとらわれがちな私たちに、根本的な価値観の問い直しを促します。

このような見方は、私が長年コーチとして選手と向き合ってきた中でも、大きな意味を持ってきました。
目の前で真面目に練習に取り組む選手が、必ずしも「良い人間」とは限りません。逆に、少し不真面目に見える選手や、時にサボってしまう選手が「悪い人間」というわけでもないのです。
一人ひとりに背景があり、体調や心の状態、その日の環境や抱えている悩みがある。だからこそ、表面だけを見て人を判断するのではなく、その奥にある「なぜ」を感じ取ろうとする姿勢が、指導者には求められると感じています。

「頑張っていること」が素晴らしいのは確かです。でも、それを見せられない状況の中で、必死に自分と向き合っている選手の姿もまた、尊いものです。

人生も同じです。目の前の出来事に「これはいい」「これは悪い」と即断せず、そこにどんな意味があるのかを問い続ける姿勢。それが、より豊かで深い人生を生み出してくれるのだと思います。

「塞翁が馬」が教える“時の流れとともに変わる意味”、そしてアウレリウスが説く“価値の相対性”、さらには現場で学んできた“人間理解の奥深さ”を、私はこれからも大切にしていきたいと思います。

SPORTS BAR FEEL FREEオーナー

宮﨑 善幸


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